常にどこかしら筋肉痛になっている自分が好き
毎日ランニングしないと気持ちが悪いという人がいます。他にもウォーキングや筋トレが習慣になっている人など、健康的な行動が習慣になっている人は尊敬します。
もちろん、ご本人たちは好きでやっているのだと思いますが、ランニングやウォーキングにしても、筋トレにしても、やる前は「さあやるか」とスイッチを入れる必要があり、やっているときは多少は「まあまあ辛い」というのがポイントではないでしょうか?
習慣になった人が感じる、やらないことの「気持ち悪さ」はどこから生まれるのでしょうか?
シンプルに、身体を動かしているときの気持ちよさを欲しているということはあると思います。わたしでいうと、サウナで整ったときと似ているのかもしれません。
しかし、それ以上に大きい要素は、「辛い思いをしていない」「楽をしている」「サボってしまっている」自分への罪悪感なのかなと感じます。わたしにとってのサウナはシンプルにリセットができるというプラスの要素だけなのですが、自分を律することができる人たちは、「努力していない」ことに対する自己嫌悪、「習慣を守れていない」気持ち悪さなのかなと感じます。
わたしは、筋肉痛になっている自分が好きです。生きてるなぁと感じます。
仕事においても近いものがあるでしょう。筋肉痛になっていない状態を気持ち悪いと感じるように、「辛くない状態」や「不安じゃない状態」が、なんとなく居心地が悪い。だから常に「筋肉痛状態」を自分に課していきたいと考えています。
ここで一つ重要なことがあります。それはチーム間、メンバー間、マネージャーとメンバー間の関係性に「不安感」「不要な緊張」は要らないし、排除しなくてはいけません。
仕事そのものはチャレンジングで良いです。「今月はキツイな、、」という時もあるでしょう。しかしそれは絶対的な安心感、信頼関係のもとに成り立たないといけません。
真冬のランニングに耐えられるのは、帰ればあったかいお風呂とビールが、あなたを暖かく出迎えてくれるからでしょう。
100°のサウナで耐えられるのは、その後の水風呂、整い、アイス、ジュースが冷たく出迎えてくれるからです。
仕事においては、「サポーティングマネージャーの存在」と「自己実現の機会」と「充実した今」と「報酬」が、お風呂、ビール、水風呂、アイス、ジュースになるべきなのだろうと思います。